Contribution 過去の寄稿論文
尾崎行雄記念財団が発行する機関誌『世界と議会』。
同誌の創刊60周年記念号に、教育政策に関する私論を寄稿・掲載いただきました。わたくし武田翔はどのような教育政策を神奈川県で実現したいのか、想いの一端に触れていただけると幸いです。
1.はじめに―海外で実感した「代表的日本人」
皆さんが「母国」を意識するのはどのようなときだろうか。ある人は古来の伝統文化に触れたとき、またある人は生まれ育った国を離れ、今までとは違った視点で見つめ直すなど、様々なきっかけがあろうと思う。私は後者であり、学生時代にアメリカへ留学した際の出来事が今も忘れがたい経験となっている。
友人とロサンゼルス郊外へ出かけた際に、アフリカ系アメリカ人のコミュニティを訪れる機会があった。私にとってアフリカ系アメリカ人を代表する人物といえば、公立中学校の教科書で習い、公民権運動の最中、凶弾に倒れたマーティン・ルーサー・キング牧師に他ならない。その「I Have a Dream」という有名なスピーチは、思い出すたび、心が熱くなる。アメリカ人の気質は西海岸や東海岸、南部などでそれぞれ異なるが、現地で私が出会った人々の目は「みずからの手で自由を勝ち取った(=Freedom)」、そんな自信で満ち溢れていた。自身のルーツを誇り、愛着を持っていた。
「はたして自分の根(=Roots)は、何処にあるのだろう?」突き付けられた思いに駆られ、大学の図書館で見つけたのが“Representative Men of Japan”であった。わが国では『代表的日本人」として知られる、内村鑑三の代表作である。同書は第35代大統領ジョン・F・ケネディが米沢藩主・上杉鷹山を名君と称えたきっかけの一冊でもあり、わが国でも同大統領の引用を機に再評価されて久しい。書名だけは知っていても、その内容に注目したのは不覚にも日本を離れてからであった。
西郷隆盛・上杉鷹山・中江藤樹・日蓮上人、そして二宮尊徳。新渡戸稲造の『武士道』、岡倉天心の『茶の本』と並び称される同書には、明治期までの日本を代表する五名の先人たちが紹介されている。いずれもわが国が世界に誇るべき偉人だが、その中でも私が注目し、今も大きな影響を受けているのが、神奈川ゆかりの二宮尊徳である。二宮と言えば小田原藩で農政にすぐれた手腕を発揮したことで知られるが、教育においても大きな足跡を残したことはあまり知られていない。本稿では二宮尊徳にスポットを当てながら、わが国の教育のあり方についての考察を試みたいと思う。
2.農政家・二宮尊徳(金次郎)と「大学」
江戸期を代表する農政家・二宮尊徳は成人後の姿よりも、金次郎と名乗った幼年期の姿が有名である。今では見られなくなって久しいが、かつては全国の至る小学校に負薪読書(ふしんどくしょ)の銅像が建てられていた。モデルとなったのは幸田露伴『二宮尊徳翁』に収められた、浮世絵師・小林永興の口絵であると言われている。金次郎が手に持っていた書物が四書五経のひとつ『大学』であるのは有名だが、なぜ大学であったのか。また見開かれていたのはどの項かという話は意外と知られていない。一説によると、次のような句であったとされる。
一家仁 一国興仁 一家讓 一国興讓
一人貪戻 一国作乱 其機如此
一家仁なれば一国仁に興(おこ)り、一家譲(じょう)なれば一国譲に興り、
一人貪戻(たんれい)なれば一国乱を作(な)す。その機かくのごとし
平易でありながら、一家のあり方を説くと同時に見事なまでの国家論でもある。現在でこそ大学の二文字は高校卒業後の教育機関を指すが、二宮尊徳のみならず代表的日本人たちが学んだのはまさに同書そのものであった。『大学』にはいわゆる「格物致知(かくぶつちち)」の語源でもある「知を致すは物に格(いたる)に在り」なども収められており、字句がなす意味は「物事の本質をよく理解し、自分の知識を極限まで深める」ことであるとされる。この語源にあやかったのが現在ひろく知られる大学であるが、こうした学びのルーツを提示してくれたのが尊徳であった。そして机上の学問としてでなく、実学として政治手法に取り入れた。二宮尊徳を代表的日本人たらしめたのは、こうした勤勉と勤労の姿勢であり、日本人の良き面の実践者であったからに他ならないと筆者は考える。
前掲の句は、単なる国家運営の要諦であるのみならず、現代を生きる私たちへの警句にもなっているのが興味ぶかい。一家が仁心と謙譲の精神をもてば国も興るが、その逆に国が乱れるには一家ならずとも、たった一人の貪戻、すなわち貪欲さであっという間に荒廃してしまう。おそらく金次郎少年はそうした部分も書物から読み取っていたのであろう。
二宮尊徳の逸話のひとつに「一斗枡の改良」がある。それまでは役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領していたのを規格統一し、不正を防いだという。またある時は村人たちの開墾作業を見回っていた際、一人の男が他の村人の何倍も激しい勢いで仕事をしている様子を見、「そのような勢いで一日中働き続けられるはずがない。お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをし、陰では怠けているに違いない」と厳しく叱ったという逸話も残されている。『大学』に学んだ、尊徳ならではのエピソードと言えよう。
その一方で、二宮尊徳は決して厳しいばかりではなかったという。ある出稼ぎの老人夫が、無力ながらも陰日向なく真面目に働き、他の村人たちが誰もやろうとしない木の切り株を掘り起こす面倒な作業を地道に続けてきた。そのことを知った尊徳は、通常の賃金のほかに慰労金として十五両もの大金を与えたと言われている。
政治というのは目につきやすいところばかりを都合よく見るのではなく、陽の当たらない陰の部分にも注目しなければならない。こうした尊徳の姿勢は、県議会の一員となった私にとって今も背筋を伸ばす規範となっている。
3.郷土・神奈川に見る教育改革の萌芽
ここで、神奈川県における教育の歴史を紐解いてみたい。一八七一年(明治四年)に廃藩置県が行われる前の神奈川県は、相模国と武蔵国の一部であった。同藩出身の農政家・二宮尊徳は、学問の修養と農業の実践によって自ら編み出した「報徳思想」の祖としても名高い。憲政の父と仰がれる尾崎行雄も神奈川県の出身であるが、神奈川という地は元来、学ぶということに対して熱心な土地柄でもある。
二宮が生きた江戸時代、各藩は有能な人材育成を目的とした「藩校」を競うように設立し、次代を担う人材を地域で育てるのが常であった。現在の都市部一極集中とはまったく異なる点である。その際の教則本となったのはいわゆる四書五経で、幼少期の二宮金次郎もの知見も漢籍や古典を通じて磨かれ、蓄積されていった。優秀な学者の招聘も国をまたいで盛んに行われ、学力がそのまま国力に繋がることもあって各藩は競うように藩校教育の充実を図ったという。一部の藩校では当時未知の分野でもあった医学や物理学なども教え、現在の総合大学のように発展したという記録も残されている。
こうした教育の充実は明治維新後もしばらく続き、明治末期に神奈川県知事を務めた周布公平(すふ こうへい)の頃には、周布と同郷の教育者・吉田庫三(よしだ くらぞう)を神奈川県第二中学校の初代校長に迎えるなど、全国に先駆けて熱心な教育を行っていたという。現在の県立小田原高校の原型でもある第二中学校、その前身は小田原藩校・集成館に端を発している。そして吉田は後に第四中学校(現在の県立横須賀高校)の初代校長なども務めたという。
神奈川に限らずとも、明治期以前の全国各地には藩校だけでなく、私塾や寺小屋など多くの教育機関が存在した。とりわけ私塾では、吉田庫三自身も門下生であった山口・萩の「松下村塾」が日本史においても有名である。
藩校と私塾や寺子屋の教育風景を比較すると、藩校のような公的な教育機関では、公権力の下にある社会体制の強化や保持が目的で、教育内容も自ずと封建保守的なものが主であったという。一方で私塾や寺子屋では、塾長の自由な教育の理想や信念にのっとり、時代を先取りした革新的な教育も行うことができたという。この辺は現在の公教育と私学教育にも違いを見ることができる。
4.「学校令」と、現代日本にみる教育の課題
明治時代になると中央集権国家が誕生し、公的な教育と私的な教育が合体する。明治政府は明治五年に「学制」を制定、かつて藩ごとに行われていた教育を全国的に統一し、日本の近代化を担う若い人材の育成を行う近代教育制度がはじまった。明治19年には明治憲法(大日本帝国憲法)を補完する形であらたに「学校令」が制定される。以来、先の大戦終結を経て学校教育法ならびに教育基本法が制定されるまで、「学校令」はわが国の公的かつ保守的な教育体制の根幹であった。このことは教育本来のあり方を考えるうえで重要なポイントであると強く感じている。
終戦から2年後の昭和22年3月、「教育の民主化」を目的にGHQの下、わが国には学校教育法ならびに教育基本法が公布された。その前文には、以下のように記されている。
”我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。”
この理念と現状を照らし合わせたとき、はたして現在の教育は原点に立脚しているといえるだろうか。学校は豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期すための機関たり得ているだろうか。そして伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進できているだろうか。甚だそんな疑問が残る。
おおよその学校教育は文部科学省が検定した教科書により行われるため、公立私立を問わず検定に基づく平均値、あるいは無難であることを求める色合いが濃くなると感じている。誤解を恐れずに言えば「尖った」、あるいはエッジの効いた教育とはかけ離れてしまう。その一因には、戦後教育の流れが中央から地方へのトップダウン型、あるいは一方通行型となっていることにあると筆者は考える。一人一人の個性を伸ばす教育はむしろ二宮尊徳が生きた時代のほうが活発で、教育基本法の理念にも現在よりはるかに適っていたのではないかとも思う。
いまの教育行政が抱える課題はなにも近年急激に顕在化したものではなく、長い年月をかけて膠着化し、結果として抜本的な見直しを余儀なくされるところまで来たのではないだろうか。その際に見直すべきは、現代の教育政策が明治期から戦後までの教育の転換であったことを意識するとともに、明治維新以前の伝統にも目を向けることにあると思う。私自身が海外の大学に進んだ経験、そして二期目の県議会議員として公教育の現場に触れてきた経験の双方を通じ、改めてそう感じている。
5.地域に根差した教育が、地方そして日本の未来を「拓く」
神奈川県では現在、文部科学省から出された指針に基づき、共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育(すべての子どものための教育)や、グローバル人材育成の観点から国際バカロレア(IB:International Baccalaureate、世界共通の成績証明)の普及・拡大に向けた取り組みが進められている。
また、今後のテクノロジー発展を見据えたSTEAM(Science, Technology, Engineering、Art and Mathematics)教育や、義務教育や大学での学びを終えた後も「就労」と「教育」のサイクルを繰り返すリカレント(Recurrent)教育などについても期待が高まりつつある。
肝心なのはその進め方であるが、これからは地域や現場の声をもとにそれぞれの特色や多様性をより尊重し、少しばかり「尖った」教育の許容範囲を広げ、振興していくことが有効と考える。その際に鍵となるのは、やはり郷土の先人からの学びが大きい。高名な偉人に学ぶことも大切、同時に郷土の発展のために尽くした名もなき先人たちを偲び、その足跡に光を当てていくことも大事だと思う。二宮尊徳が労った老人夫のような人材は、神奈川に限らず全国各地にいたはずである。
現代の私たちが日ごろ意識することなく歩む道は、わずか数十年前は舗装や整地すらされていなかった。開国の地と呼ばれて久しい横浜ですら、ペリー率いる黒船の来航までは漁師小屋が建ち並ぶ半農半漁の寒村に過ぎなかったという。現在の横浜市の隆盛は、幾多の切り株を掘り起こしていった名もなき人々の存在をはじめ、数多の人々の活躍によって成り立っていることに想いを馳せる必要があろう。
今日よりも明日へ、地域をよりよい形に変え、次代に託す。その努力を間近で見ていた次代も、よりよい地域を形成してくれることを信じる。そのように、よりよい形で日本というバトンを次代に渡していくことが今に生きる私たちの使命である。そうすることで、生まれ育った地に生きることの誇りや愛着といったものも涵養(かんよう)されるのではないか。そんな思いが日々強まっている。
6.結びにかえて ―地域に根差した教育とは何か―
最後に、神奈川県の教育を語るうえでもうひとつ興味深いエピソードを紹介したい。
かつての神奈川県知事・周布公平は、吉田松陰や高杉晋作のよき理解者でもあった長州藩執政・周布政之助の二男でもあった。いわば明治維新の原動力となった志士たちのDNAが神奈川にも息づいている、そういっても過言ではないだろう。
そんな周布が自ら招聘した吉田庫三は、県立第二中学校の校長時に修身の講義を行う際、自分の家柄や、伯父でもある吉田松陰については一言も触れることが無かったという。むしろ郷土の偉人として二宮尊徳を称え、その言行を教訓とすべきことを力説し続けたという逸話が今も残されている。
実はこうしたところにも、教育のあり方を考えるヒントがあると私は思う。
地域の発展なくして、国家の発展はありえない。神奈川県が、そして日本が教育を柱として発展していくためには、どのような人物を範としていけばよいか。その解は郷土にこそあるのではないか。そう皆さまに問いかけながら、本稿の結びとしたい。